「深夜特急」というタイトルの由来
作中に深夜特急という列車が出てくるわけではありません。 ではこの印象的なタイトルはどこから来たのか。 由来と、言葉の選び方に込められた工夫を整理します。
最終更新:2026年8月8日
映画から採られた
タイトルは、著者が作品名に悩んでいた時期に観た映画 『ミッドナイト・エクスプレス(Midnight Express)』に由来するとされています。
つまり、旅の中で乗った特定の列車の名前ではなく、 外から持ち込まれた言葉です。 紀行作品のタイトルとしてはやや不思議な成り立ちですが、 結果としてこの作品と分かちがたく結びつく名前になりました。
なぜ「急行」ではなく「特急」なのか
英語の Express は、日本の鉄道用語では通常「急行」にあたります。 直訳するなら『深夜急行』になるはずでした。
しかし著者は「特急」を選びました。 理由は意味の正確さではなく、言葉としての響きです。
「深夜急行」と「深夜特急」を並べて口に出すと、印象がはっきり変わります。 「特急」のほうが硬く、速く、遠くまで行く感じがする。 翻訳としての正確さより語感を優先した判断で、 この選択がタイトルの強さを決めたと言えます。
「便」という数え方
もうひとつ、意識的に選ばれた言葉があります。 単行本の巻を数える単位として使われた「便」です。
| 巻 | タイトル |
|---|---|
| 第一便 | 黄金宮殿 |
| 第二便 | ペルシャの風 |
| 第三便 | 飛光よ、飛光よ |
通常、書籍は「第一巻」「上・中・下」などと数えます。 そこにあえて交通機関の運行を数える語である「便」を使うことで、 タイトルの「特急」と呼応させています。
つまり読者は本を読んでいるのではなく、便に乗っているという見立てです。 第一便に乗り、第二便に乗り継ぎ、6年待って最終便に乗る。 タイトルと巻の数え方が、ひとつの仕掛けとして組み合わさっています。
各便のタイトルも読み解ける
「便」という数え方だけでなく、3つの副題そのものにも並びの意図が見えます。 東から西へ進む旅に合わせて、言葉の質が変わっていきます。
| 便 | 副題 | 言葉の性格 |
|---|---|---|
| 第一便 | 黄金宮殿 | 建物の名。具体的で、きらびやかで、東洋的な響き。香港とマカオの巻にふさわしい |
| 第二便 | ペルシャの風 | 地名+自然。建物から、土地そのものへ。移動の巻へ移ったことが題に出ている |
| 第三便 | 飛光よ、飛光よ | 具体物が消え、呼びかけになる。旅の終わりを扱う巻で、言葉が抽象へ抜ける |
建物 → 土地 → 光、という順で、 題材がどんどん手に取れないものへ移っていきます。 旅が進むにつれて目に見えるものから、感覚だけが残るという作品の流れが、 副題の並びにも出ていると読めます (第6巻の解説)。
文庫版で「便」が消えた
新潮文庫版では、この「便」という数え方は使われていません。 単純に第1巻から第6巻までで、副題も地域名に置き換わりました。
| 単行本 | 新潮文庫版 | |
|---|---|---|
| 冊数 | 3冊 | 6巻 |
| 数え方 | 第一便・第二便・第三便 | 第1巻〜第6巻 |
| 副題 | 黄金宮殿/ペルシャの風/飛光よ、飛光よ | 地域名(香港・マカオ、インド・ネパール など) |
| 効果 | 乗り物に乗っている感覚 | どこの話か一目で分かる |
これは改悪ではなく、読者層が変わったことへの対応だと考えられます。 刊行当時の読者は待って読む人たちでしたが、 文庫版の読者はすでに全巻が並んでいる棚から選ぶ人たちです。 後者には「第4巻はどこの話か」が分かる方が親切です。 文庫の巻構成は全6巻の構成にまとめました。
タイトルが決めたもの
この作品には、実際には特急も、深夜の長距離列車の旅も中心的には出てきません。 主要な移動手段はむしろ乗合バスです。
それでもこのタイトルが機能しているのは、 「夜のあいだにどこか遠くへ運ばれていく」という感覚を、 たった4文字で言い当てているからでしょう。 作品の内容を説明する題ではなく、 作品が読者に与える感覚のほうを名前にしたという点が、 このタイトルの巧みなところです。